「延命療法」という言葉が忌み嫌われて久しい。
「治癒の見込みがない状態での生命の存続を図るための対称的な治療」
の意である。
「これって延命治療ですか」「延命はしたくないです」
皆が口にする言葉である。
賛否両論あると思うけれど、在宅医療の現場は延命治療で溢れている。
それがいいか悪いかという物差しはどこにも存在しない。
何故なのかということをここにお話ししておく。
治せない病気、抗えない老い。
その中で人は今日も生きる。明日も生きる。
それを支えてくれている人が必ず存在している。
独居の方でもそう、人は独りでは生きていけないので。
介護度の高い方の、排泄の問題で悩む介助者は多い。
衰え行く身体でトイレに通うことは難しい。
自尊の問題もある。介助者の休む暇がないとする。
そのような極限状態の中で、その人は食べているのだ。
食べたり飲んだり、食べさせてもらったり飲ませてもらったりしているのだ。
食べさせてあげて飲ませてあげて、その結果生成される排泄物の
処理で、彼らは悩んでいる。
食べることは生きることだから。今日も明日も、生きていてほしい、
ここで一緒に生きていてほしい。
その一心でこの悩みと付き合いながら療養されているのだ。
「生きていてほしい」という声に応えることが延命に繋がる場面は多い。
胃瘻や輸液が問題になることが多くなったが、「口から摂らせる」延命も
増えたように感じる。
その背景にあるのは愛である。
「胃瘻も輸液も嫌だけど、自然な形で」
生きていてほしいからである。
「とても大変だったけれど、愉しかった。短かった。
もっとお世話してあげたかった」
その言葉に私は驚きを隠せなかった。
介護が辛くて悩んでいたあの時、そう長くはないだろうと思われた命の灯を
必死に経口摂取で繋いでいた人だった。
大切な人を喪った後、当時の苦痛が、大切な思い出に昇華される瞬間をみた。
その結果現場に溢れる延命を、私は忌み嫌ったりはしない。
思われる側がいて、想っている側がいる。
双方の辛さや希望に耳を傾ける。
ともに今日を生きている間柄として、投げかけられた問いに答える。
「延命」は、難しい。
愛ゆえに難しい。
生きていてほしいという声にどう答えるのかは、一人一人の心次第だ。
誰かの物差しで測ってはならない。
どうかあなたの言葉で語ってほしい。
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